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4月, 2023の投稿を表示しています

5/1・今日から五月・我が家は山梨へGo

 我が家は山梨で遊んできます。 バーベキューセットを用意して河原でバーベキュー出来るところを見つけました。 究極は手ぶらで 遊べるプラン があるみたいですが、 そこまで楽するつもりはありません。 車にコンロと練炭を積み込んで、到着前に食材を買ってから 甲州路に出向くつもりです。

4/30・今日は赤羽馬鹿祭り(みんなで赤羽に11時半集合です。私も娘を連れてGO!)

 https://twitter.com/search?q=%E8%B5%A4%E7%BE%BD%E9%A6%AC%E9%B9%BF%E7%A5%AD%E3%82%8A&src=typed_query ツイッターにもあがってた。今日は赤羽馬鹿祭り。 ↑季語は馬鹿祭りのつもりです。つまり春の風物詩♪ 「4月馬鹿」に因んで赤羽馬鹿祭りが始まったのが戦後らしいです。 お祭りっていうからには、、、と調べて行ったら 地元の武将「太田道灌」を祭る祭りで主催者の報道によると 40万人が集まる(東京都)北区最大のイベントらしいです。 40万って本当かな? (ウィキペディア情報) https://www.akabanebakamatsuri.com/ そもそも、 我が家で赤羽馬鹿祭りが盛り上がったのは昨日のお散歩が始まり。 昔懐かしい思い出の「山中模型店」で玩具をみせてあげようと プラプラ歩いていたら看板を畳んでいるので、つぶれたっぽい。 しかし、 その近くに明日主催の馬鹿祭りの立て看板が出ていて 娘に「明日は馬鹿祭りですって!」と話したところ 目茶目茶に興味を持って行く!行く!ってことになったのです。 拙宅の隣に私の弟(娘のおじさん)が住んでいて、 娘が話したところ弟も行くことになり、 話の勢いで同居しているお婆さんに話したら行くことになり 私を含めて4人で11時に集合という話になっています。 そして赤羽へGo! 電車こむと嫌なので、最初のスピーチが始まる前に 赤羽に行こという筋書きなのですが、 80過ぎのお婆さんが居るので遅くなる事でしょう。 幸いに、 お天気は良さそう(?)なので 今日は楽しんできます。 4:50現在雨の音が少し。。。。。

4/29・ほかほかのパン・メモまとめ

 4/11分) Ⅴ.(好意について)ちょっとした言動の中にちょっとした言い回しの中に  日常感覚的なレヴェルで自分と同等なものを何か認めるからである。 P14.マッカラーの方程式に現れる定数Cは、全くの偶然だが現代の光速度である。 P23.(マクスウェルの本に出会い)ヘヴィサイトは二度と就職することなく  ほとんど人付き合いもなく貧困の中で研究に没頭した。 P26.ヘヴィサイトが名付けたコンダクタンス、インダクタンス、インピーダンス  アドミッタンス、リラクタンス、パーミッティビティー(誘電率)などは  現代の標準用語となっている。 P30.「S.エリオットの詩をもとにしたミュージカル『キャッツ』には「上れ、上れラッセルホテルを超えて、上れ、上れ、上れヘヴィサイト層まで」という歌がある。 P51.(ノッティングヒルで)マクスウェルは1860年から1866年までこの家に住んだ。   マクスウェルのもっとも実りある時期で、重要な仕事はここで行われた。電磁気学   だけでなく、気体分子運動論、三原色の原理、カラー写真の研究もここで   行われた。 P52.(1861年ファラデーへの手紙で)光の媒質と電磁的媒質は一つである   と信じる強い理由があると思っています。 P52.独仏の物理学者が抽象的、数学的な体系を作るのに対し、  英国の物理学者は具体的な模型を使った。 P59.ケンブリッジ、アバーディン、ロンドンを通じて労働者  の為の講義を退職後の1866年まで熱心に続けた。  学生よりも労働者に学問への熱意を感じたようである。 4/12分)  P59.(マクスウェルは)1867年12月11日付のティト宛の手紙に  熱力学第二法則のパラドックス「マクスウェルの魔物」  が現れた。 P59.(マクスウェルは)1871年にケンブリッジに新設された  実験物理学教授をしぶしぶ引き受け、キャヴェンディッシュ研究所  を創設し、キャンデビッシュの遺稿を編集するために全精力を傾けた。  (そして、享年48歳で亡くなった) P64.1920年に「マクスウェルという人物を知っている人はいないか?」  という新聞広告が出た。(実際に知っている人が現れたら)⇒  マリシャルカレッジのマクスウェル宛に配当が届いているが… P75.(トムソン)1846年に自らが発見したベクトル量の  時間微分係

4/28・アーサー・ケストナー著「ヨハネス・ケプラー」

P33. (ケプラー自身の自己肖像)その男はあらゆる点で犬に似た性質を持っている。  顔つきは小さな愛玩犬のようだ。身体は敏捷で、きゃしゃで釣り合いがとれている。  食べ物の好みでさえ犬のようだった。彼は骨をしゃぶったり、乾いたパン皮を齧る  のが好きだったし、ひどくガツガツしていていて、目に入るものは何でも飛びつく  程だった。しかも犬と同じで酒もほとんど飲まず、ごく粗末な食物で満足している。  習癖も同様だった。彼は他人の善意を探し求め何事も他人に寄りかかり、彼他の  意のままになり。叱られても決して腹を立てず、熱心に彼らの寵愛をとり戻そうと  努めるのだった……(略)……彼は多くの人をひどく嫌っており、彼らは彼を  避けているが、彼の主人たちは彼を愛している。 P46(手紙で)ついでながら、これまでの所、私の暦の予言はその正しさが証明され  つつあります。この地方は前代未聞の寒波に襲われました。アルプスの農場では  寒さの為に人が死んでいます。確かな筋の報道ですが、彼らが家に帰ってから  鼻をかむと鼻が撮れてしまうのだそうです。 P64.5種類の正立体に対するケプラーの誤った信念は一時的な気まぐれではなく  彼の生涯の終わりまで、、、

4/27・アーサー・ケストラー著「ヨハネス・ケプラー」

 非常に読み応えのある本です。 ジャーナリストである筆者の力強さを感じます。 前書き)ケプラーの本を書いているケストラーはツェツペリン伯に従って北極に行ったりした⇒つえっぺりんを10月? P13.(kepler, keppler, khpler, kepierusなどと名前を記述する側面もある)  自分の名前に対する無頓着さと、日付について極端なまでに精密を期していること、  この二つの対蹠(たいせき)的な態度の共存はそもそも一つの精神を反映している。  すなわち彼にとって宗教、心理および美の本質である。 P14.Weil-der-studt(1935の記載) P16.祖父ゼバルドゥスは名門の出と言われヴァイルの市長となった。  しかし彼の後は名門ケプラー家の家運は傾いていった。  彼の子孫のほとんどが変質者であり、精神を病んでいた。  (父は山師、母は火あぶりになりそうになった。) P17.ケプラーが24歳の時に描き上げた、この星占いによる家系譜(ホロスコープ)  は彼の家族(彼を含めて)を包括している。 P18.4番目はケプラーの父ハインリヒ P20.ハインリヒは1547年1月19日に生まれた。私の父である。不道徳で  頑固で喧嘩好きな男であり、非業の死を運命づけられていた。  金星と火星が彼の邪悪な意思を一層助長した。 P21.ハインリヒ・ケプラーは・・・・・例外は「砲術」  居酒屋・傭兵・ナポリ艦隊 P27.1577年の彗星の話を聞いて知った(ケプラー6才)  9歳の時「両親は月食をみせる為に私をわざわざ戸外へ呼び出した。  月は真っ赤に見えた。」彼の人生の側面の明るい側面はそのくらいだった。 P28.会話もラテン語・・・・(ケプラーのドイツ語で書かれた手紙などの文体は)  天真爛漫で泥臭く魅力的であるものとなており、あたかも厳しい講義室から  解放されて、田舎の縁日か何かで楽し気な歌声をあげている、というような  響きがある。⇒(その後、ケプラーが牧師を選ぶ) P33.犬に似たケプラーの性格

4/26・イケメン評論家・内藤みかさんを知ってビックリ

  今日は内藤みか の「ソーシャルライフブログ」を読んでます。 イケメン評論家として評論したり 息子を数学の世界に誘ったり シングルマザーとして子育てする姿は 全て面白おかしく読んでいけます。 ホスト通いしながらも ツイッターとか新しい仕組みを学び 二人の子供を育てていく姿は逞しいです。 面白い人だと思います。

4/25・ハイゼンベルグ「現代物理学の自然像」

 P174.(ド・ブロイの引用を最後にハイゼンベルグが語ります。漢数字を算数時に直します)  われわれの付録の目的はもっとも著名な自然科学の代表者の  著作からのいささか不十分足らざるを得ないような抜粋を  通じて近代自然科学の歴史的立場を少なくとも暗示的に記述する事  であった。我々は要約して次のことを強調したい。 ①近代自然科学はその発端において意識的な謙虚さを特徴とする。  それは厳重に制限された関連に対して、ただその枠内で適用する記述をする。 ②19世紀において、この謙虚さは失われていく。物理学の知識は  全体としての自然に対する陳述と考えられる。物理学は哲学でありたい  と欲し、そして再三再四、それぞれの真の哲学は自然科学ではなければならない  と要求された。 ③今日、物理学は変化している。その元来の謙虚さへの復帰が、その変化の  目立った特徴であるように見える。 ④科学の哲学的価値は、科学がその限界を知るようになる時のみ認められる。  そして真実の哲学的見解へ移行する知識に到達する。 p180.人文主義と文芸復興の時代(15及び16世紀)と共に  我々にとって極めて重要な自然観が起こる。自然への通路は何より  実験によって探し求められる。 ①ダヴィンチ(1452ー1519)…(略)…広範な遺稿の選集.M.ヘルファルト  「レオナルド・ダヴィンチ・思想家・探究者および詩人」  (イェナー・1910)実験は前もって計画された理論、これが実験によって  確認されるか或いは否定されるかを吟味するために自然を調べる事である。 ②レオナルドの実験概念はベーコン(1561-1625)  (学問の発達と進捗に関する2書。1602.)の新しい基本的立場  にも一致している。 ③実験概念はガリレオガリレイ(1564-1642)によって拡張される  (主著・UnnciusSiderenus.1610.)そして我々は彼およびケプラー  (1571-1600)により宇宙概念の復帰に巡り合う。 ④ジョルダノ・ブルーノは自然および万有の新しい概念の擁護者であった。  …古い地球中心説と新しい太陽中心説を対置するばかりではなく  この種の世界があるだけではなく、無数の正解があることを  認めたことが問題である。

4/24・左折のタイミングで信号無視⇒青切符¥9000 ーー;

 悲しいことに、週末に切符切られました。 普通に国道17号と環七の交差点で左折した積りが タイミングが早かったみたいでサイレン鳴らされて 青切符切られました。大分久しぶりです。 何年ぶりだろう・・・・・・・ とか言いながらも免許はゴールドではないので 3年経過していないと思います。 何はともあれ、今は春の交通安全運動の最中です。 皆さんも気をつけましょう。

4/23・メモまとめ集更新(この投稿を読んで概略を思い出せば、レポート書くときに便利な感覚)

  藤森氏も太田氏も「かっちりした」文を書く人は尊敬です。 私も含めて理学系の人は個性が強すぎて 読者を意識出来ていないのではないでしょうか。 分かり易い、 正確な文章を、 情熱を込めて残せる人は 素晴らしい。 そうした文章を学ぶ時代を過ごしたかった、 と 無い物ねだり してしまいます。 3/26・藤森茂「ロバート・オッペンハイマー」|書評メモまとめ(最終版) 3/26.太田浩一「ガチョウ娘に花束を」のメモまとめ(最終版) 4/1・太田浩一「それでも人生は美しい」メモまとめ(最終版) 4/1・太田浩一「哲学者たり理学者たり」メモまとめ(最終版) 4/23・ハイゼンベルグ「現代の量子力学のまとめ(最終版)

4/23・ハイゼンベルグ「現代の量子力学」のまとめ

 しっかりした内容で内容に満足しています。ハイゼンベルグの真面目な性格が伝わってくるような誠実さが文面から感じられます。少年時代の友人との会話や、理論確立のために参考にした形跡も感じられます。お勧めです。 p2.(近代自然科学の起源)この科学はケプラー、  ガリレオ、ニュートンによって基礎づけられたが  初めの頃には未だ、自然の中に先ず第一に神に  よって創造されたものを認めるという自然観が通用していた。 p2.(ケプラーが美に対して)貴方のみ手による創造物に   喜びの声を上げます。 p3.(ニュートン)ときおり普通より美しい、滑らかな小石や貝殻を見つけ  喜んでいる子供のように思われる。前方には未知の心理の  大海が広がっているのに。 I was like a boy playing on the sea-shore, and diverting myself now and then finding a smoother pebble or a prettier shell than ordinary, whilst the great ocean of truth lay all undiscovered before me. ⇒dIRACへ p9.ボーアが言ったように我々が劇場で観客であるばかりではなく、  何時も共演者であることに気付かなければならないであろう。 p15.「精神の制御の不安定」ということは、我々の現在の危機の  中にある人間の状態を与えうる。おそらく最も適切な表現の  一つであるからである。 P32.ギブスとボルツマンの発見以来、物理系についての不十分な知識が  物理法則の公式化に組み込まれていたにもかかわらず、量子論の  きっかけとなったプランクの有名な発見までなお、原理的には  決定論が維持されていた。 P33.(アインシュタイン・ボーア・ゾンマーフェルト以降)ラザフォード・ボーアの  原子模型のおかげで化学的現象が説明されるようになった。この時以来、  化学・物理学・及び天体力学は融合した。 P46.(ハイゼンベルグの大学での話・本の出版は1955年)  30年前に当時ミュンヘン革命の戦争が起こり都心は共産党に占拠され  17歳の若者であった私は学友と一緒にある隊に補助員として配属された。 P49.数学と直感との遊びを少なくとも他の

4/21・ハイゼンベルグ「現代物理学の自然像」

 P80.(ケプラーは経験を軽んじた)⇒(ガリレオは・・  近代科学の P91.(ザクレド曰く)天体の実質は作り出すことが出来ず、  破壊する事も出来ず、不変であり、無感覚であり  簡単に言えば、位置の変化を除外すればいかなる変遷からも  遠ざかっている。 p92.神経は心臓から発する(アリストテレス派との対比) p110.(ニュートン)彼は人格神に対する信仰を固辞している。  自然の機構はただ神の目的遂行の手段に過ぎない。 p112.第四法則。実験物理学においては現実から帰納によって  決定された法則は…までは正確あるいは近似的である  としなければならない。この規則は帰納法が仮説によって  廃止されない為に行われなければならない。(j・ヴォルファス  「アイザック・ニュートンの自然哲学の数学的原理」 p113.私は工夫はしない。つまり現実方生じないものは全て仮説  であり、それが形而上的であれ、あるいは物理的であれ、  実験物理学で仮定されてはならない。 p121.(光の伝わり方に関して)石を投げ入れた時に水面に出来る  のが見られる波との類似よって「波」と名付ける。何故なら  それは発生の原因は違うが、ただ一平面内に作られるのに  関わらず全く同様に円形が次々と伝番するのを知覚させるからである。  (ホイヘンス「光に関する論文」(1690) ダランベールが列伝にある? アカデミア・フランセズ(1635年)

4/20・ハイゼンベルグ「現代物理学の自然像」

P32.ギブスとボルツマンの発見以来、物理系についての不十分な知識が  物理法則の公式化に組み込まれていたにもかかわらず、量子論の  きっかけとなったプランクの有名な発見までなお、原理的には  決定論が維持されていた。 P33.(アインシュタイン・ボーア・ゾンマーフェルト以降)ラザフォード・ボーアの  原子模型のおかげで化学的現象が説明されるようになった。この時以来、  化学・物理学・及び天体力学は融合した。 P46.(ハイゼンベルグの大学での話・本の出版は1955年)  30年前に当時ミュンヘン革命の戦争が起こり都心は共産党に占拠され  17歳の若者であった私は学友と一緒にある隊に補助員として配属された。 P49.数学と直感との遊びを少なくとも他の大抵の遊びと同程度に興味ある  ものに感じた。 P59.(西洋について)我々の地域が二千年を通じて生きてきた力の源泉に  到達せんことを望みたい。混乱と戦いの一つ一つが起ころうと  我々の不安を気にかけるな。  P80.(ケプラーが経験を軽んじた⇒ガリレオ)近代自然科学的思考の原理が驚くべき明快さと簡潔さをもって表明される。すなわち仮説と経験の相互作用を確立する原理である。

4/19・ハイゼンベルグ「現代物理学の自然像」

 ガッツリした内容に、 久々に読みごたえを感じてます。 もっと早く読めばよかった。 メモを残します。 p2.(近代自然科学の起源)この科学はケプラー、  ガリレオ、ニュートンによって基礎づけられたが  初めの頃には未だ、自然の中に先ず第一に神に  よって創造されたものを認めるという自然観が通用していた。 p2.(ケプラーが美に対して)貴方のみ手による創造物に   喜びの声を上げます。 p3.(ニュートン)ときおり普通より美しい、滑らかな小石や貝殻を見つけ  喜んでいる子供のように思われる。前方には未知の心理の  大海が広がっているのに。 I was like a boy playing on the sea-shore, and diverting myself now and then finding a smoother pebble or a prettier shell than ordinary, whilst the great ocean of truth lay all undiscovered before me. ⇒dIRACへ p9.ボーアが言ったように我々が劇場で観客であるばかりではなく、  何時も共演者であることに気付かなければならないであろう。 p15.「精神の制御の不安定」ということは、我々の現在の危機の  中にある人間の状態を与えうる。おそらく最も適切な表現の  一つであるからである。  

4/18・太田浩一著「ほかほかのパン」

 P218.ケプラーは自然の普遍的合法則性が全くなかった   時代に生きた。彼一人で誰にも助けられず、ほとんどの  人に理解されず、惑星の運動とその運動の数学的合法則性  の経験的研究に10年にわたる骨の折れる厳しい仕事を捧げた。  (アンシュタイン曰く) P234(ノクスらは数学者から「ドイツの暗号暗号」を解く  方法を聞いていた。 P236.(チューリングは42歳で1954年に亡くなったが)  半同性愛法が撤廃されたのは2002年11月19日のことである。 P239.(漱石のエレファント・アンド・キャッスル) P243.ファラデーは1812年にハンフリー・ディヴィーの  最終講義4回を聞くことが出来た。(聴講券をもらう)  ⇒「僕の仕事は科学史しかない」(と考えた) P245.ファラデーは失敗を重ねていたが、ヘンリーが強力な電磁石  を作ったことがきっかけとなった。⇒電磁誘導 p247.(1846年)内気で話下手のホイストンは講義会場に近づくと  パニック状態になり階段を駆け下りて逃げてしまった。ホイストン  に代わってその結果を説明したファラデーは「光が電気力戦の振動」  であるという仮説を付け加えた。1846年にマイケルソンが…

4/17・太田浩一・「ほかほかのパン」

P164.ヘンリーが強力な電磁石を作ったことはファラデーを刺激した。 P165.ヘンリーはその年にニュージャージーカレッジ(プリンストン大学  の前身)から教授として招聘された。 P169.ヘンリーは1849年、義務感で(スミソニアンの)所長を  引き受けワシントンに移った。 P177.ロイヤル運河を跨ぐようにして作られた橋に  「1843年10月16日、歩いている途中のこの場所で  ウィリアム・ローゼン・ハミルトン卿は天才のひらめき  によって、四元数の席に関する基本公式、  i^2=j^2=k^2=ij=jk=ki=-1 を発見しこの橋の石に刻んだ」と記された名盤が埋め込まれている。 P180.ハミルトンが「代数学の解放者」と呼ばれているのは積が可換ではない  代数を発見したからである。 P183.ハミルトンは(1827年)6月16日にトリニティーの  天文学教授に指名された。 P184.ハミルトンは望遠鏡を覗くことは殆どなく数学の  研究に没頭した、  P184.翌年発表した「第二論文」で極めて洗練された「正準形式」を作った。  また、特性関数を拡張した「主関数」に対する方程式を導いた。  (「ハミルトンーヤコビー方程式」)。ヤコビーが1827年の論文で  一般的に発展させた。ヤコビーは停留作用の原理を「ハミルトンの原理」  と名付けた。この年8/15日にトリニティー図書館ロングルームでナイト  に叙せられ1837年には王立アイルランドアカデミー会長に選ばれた。

4/16・太田浩一・「ほかほかのパン」

 P151.ハイゼンベルグは1924年の復活祭休暇にコペンハーゲンの  ボーアを訪ねた。ボーアは物理を語り合うためにリックサック  を背負い、22歳のハイゼンベルグを連れてヘルシングエール  まで往復するハイキングへ出かけた。 P151.(ハイゼンベルグは1925年の)「運動力学及び力学の  関係式の量子論的再解釈について」が突破口になった。  その論文を読んだボルンはハイゼンベルグの遷移振幅が  行列であることに気付いた。ボルンとヨルダンは「量子力学について」  で座標と運動量の交換関係を与えた。ボルン、ヨルダン、  ハイゼンベルグの「量子力学についてⅡ」によって行列力学が完成した P154.ハイゼンベルグはボーアに「核兵器製造は理論上可能である」けれども  「現実には短期間に実現できない」事を伝え、ドイツが核兵器を開発する  意思がないことを暗黙のうちに理解させようとしたが、ボーアは前段で動転し  ハイゼンベルグの意図を受け止められなかった、  というのがハイゼンベルグの言い分である。

4/15・ハイゼンベルグ「部分と全体」

Ⅴ.(湯川秀樹.序文)20世紀の初頭は物理学の英雄時代だった。 P6.(友のロバート曰く)君たちが言っていることは要するに君たちの  考えに基づいており、直接に君たちが知っていることは  その考えだけなのだ。しかし考えというものは物体の中にはない。

4/14・【書評】太田浩一著「ほかほかのパン」

【スポンサーリンク】 この本のタイトルが暖かいですね。 タイトルの「パン」とはエミー・ネータの 人柄を表していて、その章は「普遍変分問題」 を考えていた女性数学者の物語です。 ネータは「近代数学の母」とも呼ばれて 「食べないと数学が出来ないじゃないの」 なんて語る。暖かい人でした。 「エミー・ネータは一塊のパンのように温かかった。 彼女からは、おおらかな、元気づけるような、 生き生きとした温かさが輝き出ていた。」 【太字部は本文から引用しました。】 このネータを含めて 以下物理学者を紹介しています。   【目次】 光の波動方程式を発見‐マッカラー マクスウェル方程式を評価‐ヘヴィサイド 電磁波生成の考えを生んだ‐フィツジェラルド 電磁気学・統計力学の創設‐マクスウェル 古典物理の最後の伝道者‐ケルヴィン卿 一塊りのパンのように温かい‐エミー・ネーター 貧困からなりあがった‐ディーゼル マリー・キュリーとの小さな恋‐ランジュヴァン 量子力学の基礎考察:AB効果‐Dボーム 行列力学・不確定性原理確率‐ハイゼンベルク 謙虚な人生‐ヘンリー 4元数を残した酒で終わる人生‐ハミルトン 社会数学を提唱‐コンドルセー 放浪の孤高の天文学者‐ケプラー コンピューター科学の先駆者‐テューリング ろうそくの科学でクリスマスレクチャー‐ファラデイ

4/13・太田浩一著「ほかほかのパン」

P91.エミー・ネータとほかほかのパン P106.(スエヴィ族の後裔)ディーゼルに決定的な影響を与えたのは  カール・リンデの熱力学諸表である。 P107.ディーゼルは1883年からアンモニア・ガスエンジンの研究に没頭した。  1886年までにゴトリーブ・ダイムラーとカールベンツは  ガソリンエンジンを改良した。二人ともシューベントである。  ベンツ社は1883年、ダイムラー社は1890年創立で両社は  1926年に合弁した。 P107.シュトゥッドガルト駅の屋根にはベンツの商標が高々と掲げられている。 P110.ケルビン卿の助言でスコットランド人はシューベン人に  契約料を払うことを了承した。 P114.ドイツ語の碑文「貴方の精神は遠く離れた日本で…」  P121.(ランジュバンの親となる)夫婦は1871年のパリコミューンでは  第一線にいた。ランジュバンは1872年1月23日に生まれた。  パリコンミューンの敗北によって両親が打ちひしがれていた時である。  ランジュバンは「私は1870年の戦いの直後に共和主義者の父と献身的な  母の間で育った。両親はパリ占領とコミューンの血なまぐさい鎮圧の  目撃者として語ることによって私の心に暴力への憎しみと  正義への熱望を植え付けた」と言っている。 P122.(1905年)電子論の過程においてアンペールおよび  ウェバーの考え方に正確な意味を与え、常磁性と反磁性とに必要な  全く異なる説明を与える事がいかに可能かを示した。 P126.(恋の物理学者は離婚前?) P128.ランジュバンの孫ミッシェルとキューリの孫エレーヌは  物理化学学校の学生時代に出会い結婚した。 P137.ボームはオッペンハイマーに魅了された。 P139.ドブロイはボームに刺激されて昔の研究を再開した。

4/12・太田浩一著「ほかほかのパン」

 P59.(マクスウェルは)1867年12月11日付のティト宛の手紙に  熱力学第二法則のパラドックス「マクスウェルの魔物」  が現れた。 P59.(マクスウェルは)1871年にケンブリッジに新設された  実験物理学教授をしぶしぶ引き受け、キャヴェンディッシュ研究所  を創設し、キャンでビッシュの遺稿を編集するために全精力を傾けた。  (そして、享年48歳で亡くなった) P64.1920年に「マクスウェルという人物を知っている人はいないか?」  という新聞広告が出た。(実際に知っている人が現れたら)⇒  マリシャルカレッジのマクスウェル宛に配当が届いているが… P75.(トムソン)1846年に自らが発見したベクトル量の  時間微分係数を電磁力に加えれば電磁気学は完成していた。  だが、トムソンは二度とこの論文に戻ることはなかった。 「そのような理論」を発見したのはマクスウェルである。 P89.エネルギー保存則が上手く導けないのである。そこで  ゲッチチンゲンにやってきたエミー・ネーターに相談した。 P91.(エミーは)「食べないと数学が出来ないでしょう? 」と反論した。 P91.ヴァイルは「エミー・ネータは一塊のパン」のように暖かかった。

4/11・太田浩一著「ほかほかのパン」

 PⅤ.(好意について)ちょっとした言動の中にちょっとした言い回しの中に  日常感覚的なレヴェルで自分と同等なものを何か認めるからである。 P14.マッカラーの方程式に現れる定数Cは、全くの偶然だが現代の光速度である。 P23.(マクスウェルの本に出会い)ヘヴィサイトは二度と就職することなく  ほとんど人付き合いもなく貧困の中で研究に没頭した。 P26.ヘヴィサイトが名付けたコンダクタンス、インダクタンス、インピーダンス  アドミッタンス、リラクタンス、パーミッティビティー(誘電率)などは  現代の標準用語となっている。 P30.「S.エリオットの詩をもとにしたミュージカル『キャッツ』には「上れ、上れラッセルホテルを超えて、上れ、上れ、上れヘヴィサイト層まで」という歌がある。 P51.(ノッティングヒルで)マクスウェルは1860年から1866年までこの家に住んだ。   マクスウェルのもっとも実りある時期で、重要な仕事はここで行われた。電磁気学   だけでなく、気体分子運動論、三原色の原理、カラー写真の研究もここで   行われた。 P52.(1861年ファラデーへの手紙で)光の媒質と電磁的媒質は一つである   と信じる強い理由があると思っています。 P52.独仏の物理学者が抽象的、数学的な体型を作るのに対し、  英国の物理学者は具体的な模型を使った。 P59.ケンブリッジ、アバーディン、ロンドンを通じて労働者  の為の講義を退職後の1866年まで熱心に続けた。  学生よりも労働者に学問への熱意を感じたようである。

4/10・現代物理学の父ニールス・ボーア・西尾茂子著

 148.つまり不確定性関係は数学的要求、光の粒子性と不連続を波動性より  優勢に老いた所からしか、出てこない。 (ボーアがハイゼンベルグを 細かく批判した点)  ⇒二か月の議論でボーアのコペンハーゲン解釈…コペンハーゲン…  ⇒第5回ソルベー会議(桑木・仁科) P156.(アインシュタイン曰く)  「私の科学的直感にあまりに反するがゆえに、  私はさらに完全な概念を探し求める事を  やめるわけにはいかない」と書いた。  ボーアは、この行きづまりを非常に悲しんだという。 P156.いわゆる深い事実に組する言い方をすれば  反対者もまた深い真実を含むというわけである。  アインシュタインとの討論によってボーアの相補性の考えは  ますます磨きがかかり練り上げられた。 P164.相補性と富士山 P225.1943年ボーア亡命 P266.ローゼンタールの引用。ボーアが原子炉 P436. 1943年ボーアと息子はアメリカへ⇒コペンハーゲン P203.リーゼ・マイトナーのドイツ脱出(他ランダウ) P211.(マイトナー・ワリッシュが36年に覚書))  ⇒ボーアは彼らの覚書が書きあがるまで黙っていると言い  彼らの優先権を保証した。 P212.1940.4.9ドイツ軍デンマーク侵攻⇒無条件降伏  ⇒ノルウェー、ベルギー、ルクセンブルグ、オランダ  フランスとの停戦(ボーアの母がユダヤ系) P222.カシミール、ハイゼンベルグ、ボーアのドイツ観

4/9・揺動散逸定理と量子コンピューターでのデコヒーレンス

 量子コンピューターでの基本素子QBITを考えるうえで とても大事な概念となるのがデコヒーレンスです。 日本語で表現すれば「干渉状態の喪失」とでも言えるでしょう。 重ね合わせ状態が外部環境などとのやりとりで壊れていく 姿は自然に思えます。ただし、 可逆な古典理論での枠組みでは説明がつかない現象です。 ニュートン力学では可逆で、現実には不可逆です。 水中のボールが減速していく様子は再現出来ません。 微視的に考えていくと沢山の水分子がボールに弾性衝突を くりかえす可逆な過程ですが、統計的に考えていく時点で 不可逆な要素が出てきます。 ボールが速度を増すことはあり得ません。 「シュレディンガーの猫」の現代的解釈でもデコヒーレンスは 大きな役割を果たし、干渉喪失の時間が観測時間に対して 非常に短いことから「重ね合わせが成立しない」と示されます。 量子コンピューターでもこの「デコヒーレンス時間」 が大きな役割を果たします。

4/8・西尾茂子著「現代物理学の父ニールス・ボーア」

P83.初めは弟とハラル、そして話し相手、口述筆記者  としての役割を、引き続き処理する事になった。  (クラマスの話)  また、マイクロ波で超伝導体を制御していき量子ビットを具現化していく技術は近年目覚ましく向上しています。学ぶ価値ありです。

4/7・西尾茂子・現代物理学の父ニールス・ボーア

今日もメモを残します。 1920年代初頭の前期量子論の進展に続く不確定性関係の 確立の時代です。 P150.(アインシュタインは)確率を持ち込まなければならない  理論は不完全だというのである。 P155.(私のメモ)⇒ 桑木 の後継者が 藤森? P162.(1929年)ハイゼンベルグとパウリは原子物理学の詳細を  磨き上げる雑魚どもーーとパウリは冗談に言った--に任せて  新しい量子化の方法を電磁場に適用するという残された  主要な仕事にとりかかったいた。 p164.ディラックと図書室の脇で… p166. 「他の人の仕事に口出しする事をしたことがない。  彼の時間を無駄に費やすのではないかといつも心配した。  私自身の時間を費やすことは何とも思わないが  他の人の時間を無駄にしたくない。」  非常に思いやりがあって、とても学閥など作る人ではなかった。  コペンハーゲン精神を広めなかった別格の人である。 p166. ⓪1928年の春ライデンに居た頃に…すぐに答えが出ない  ような質問があった。ディラックは黒板に非常に小さい文字で  それをかくすようにしてすばやく計算した。それを見て   エーレンフェストは興奮して「彼が実際にどうやって研究を  するか垣間見ることが出来る!」といった。しかし、  みんながそれをよく見ない内にディラックは直ぐにその計算を消して  何時ものスタイルでエレガントな表式を書き進めた。 (以上、カシミールの経験) ①ディラックは「パウリには一個の砂糖で十分だと思う」と言った。  しばらくして「誰にも一個の砂糖で十分だと思う。」  更にしばらくして 「一個の十分なように砂糖は作られていると思う。」 (こればボーアがカシミールに話したことだという。 ②ディラックと研究所の図書館の脇で立ち話をしている  時のことです。仁科はディラックに 貴方の論文には  符号の誤りがあるのをみつけました。」と言ってから、  次のような会話が仁科とディラックの間で交わされました。  ディラック「しかし結果は正しいですよ。」  それに対して仁科は「では二つあやまりがあるにちがいありません。」  するとディラック「偶数個の過ちがあるといわなければなりませんね」 ③1933年のボーア・コンファレンスで恐らくディラックだけが  エーレンフェストの相当なうつ状態に気付いていた。

4/6・西尾茂子・現代物理学の父ニールス・ボーア

 P136.パウリは高水準の研究を要求し、自分の研究に対しても他人の研究に対しても、たとえボーアのような年長の意図の研究に対しても非常に厳しい批判者であって、理論の基礎から、その理論的展開まで徹底的に考え抜き、少しでもあいまいな点があれば見逃さず、容赦なく痛烈に、時に皮肉交じりにウィットにとんだ口調や文章をもって批判した。その為に「物理学の良心」といわれ、物理学の変革期に極めて重要力な影響を発揮した。辛辣な批判は時には若者を落胆させることもあったと言われるが、決して嫌われている訳ではなかった。 P144.(ボーアについて)彼は非常に思いやりがある親切な人だが、理論の死活にかかわる重要性持つと考えた認識論的問題に関連するこのような議論においては、この上ない頑固さで熱心に議論全体の完全な明晰性を主張した。 ⇒シュレディンガーへの議論

4/5・西尾茂子「現代物理学の父ニールスボーア」

 本日も私なりに抜粋を続けます。 P75.(1914年以降)マンチェスター研究所のアクティビティーは  戦争によって大きな影響を受けていた。 P75.海外から来ていた同僚はボーアが付いた時には四散し、イギリス人の  大部分は軍役についていた。⇒ラザフォードはニュージーランドへ P76.ガイガーは大戦以前にすでにベルリンを… P78.プランク・アインシュタイン・ゾンマーフェルトのような  大御所は軍事研究に駆り出される事は無かった。 P78.(1915年のゾンマーフェルトの研究にボーアは)  「非常に興味深くかつ美しい貴方の論文誠にありがとうございます。   これほど楽しんで読ませて頂いた論文はこれまでなかったと思います。」 P80.ラザフォードが政界で初め人工核変換(α線を窒素にぶつけると  水素核(=陽子)と酸素が出来る)の発表を公にするのは1919年の事である。 (He+N2⇒H+ +O2) P84.ボーアは1917年4月18日に大学独自の理論物理学研究所設立を提案する  詳細にわたる文書を学部に提出した。 P89.(1920年理論物理学研究所でラザフォードを呼び)9月に来て  前年発表したばかりの人工核変換について講演していった。 P92.戦争が終わったらライデンに行きたいというボーアの言葉に対して  エーレンファストは1月にボーアを招待する手紙を書いた。 P101.極めて重要なことは限られた研究仲間の能力や活力に頼るだけでは  いけないという事です。、科学の結果や方法に絶えず若者たちを導きいれる  事をしなければ、新しい側面から議論出来る諸問題を上手く取り上げ続ける事は  できません。こうして若者たち自身の寄与を通じて、新しい血、新しい考え方  が絶えず研究に導入されるのです。⇐ いわゆるコペンハーゲンスピリットは                     開所講演に現れています。 P104.(補助金で)24年にボルン、26年にシュレディンガー、23年から仁科、  22年にはパウリ P(私論).1921年3月3日を起点として本書を読まれることをお勧めします。 P122.22年、後に「ボーア祭りと呼ばれる集まりで:22/6/12~22)  ボーアはとびぬけて優れた二人に若者パウリとハイゼンベルグに出会った。  ハイゼンベルグはゾンマーフェルトに連れてこられて、パ

4/4・西尾茂子「現代物理学の父ニールスボーア」

 以下、私なりに抜粋を続けていますが余り詳細に記載すると著作物のネタバレにつながるので書評の原稿を書き終えた時点でどんどんブログの奥の階層へ落としていきます。リンクも残さずに書評だけ残します。 P43.(ウランやトリチウムよりもラジウムやボロニウムの方が  放射線が高いとキューリは1898年に発見した。) P44.ラザフォードは1902年にα線も強力な磁場で曲げられることを示し  α線がβ線よりはるかに重い正に帯電した物質粒子であることを確かめた。  ⇒1903年の放射性遷移理論へとつながる P44.(ラザフォードの仕事)この理論によって混乱状態にあった  放射能研究が整理され、その後の研究が方向づけられるようになった。 P44.自分が化学者に変わったことに驚いたとラザフォードは苦笑していたという。 P45.ラザフォードは原子核の発見者となった。 P46.(トムソンのモデルが支配的だったのに対して)ラザフォードのモデルの  重要性は原子のほとんどの質量を担う中心荷電粒子、つまり原子核が  原子の大きさに比べて極端に小さい事にあった。 P48.(ボーアはラザフォードに)原子モデルとの関連性を強調し過ぎないように  比較的乏しい実験的証拠から性急に結論しないようにとたしなめられたという。 P49.(ラザフォードとボーア互いの夫婦の写真) P50.ボーアは1913年ラザフォードの電子モデルに量子論を適用し  水素原子の発する光のスペクトルを見事に説明したことにより  一躍注目される P50.(ソルベー帰りのラザフォードは)知人宅で彼独自の熱っぽさで  物理学における新しい…… P51.ラザフォードは色々な点でボーアと違っていた。性格的に  正反対でボーアと違っていた。ラザフォードは研究室中に鳴り響く  ような声で笑い簡単明瞭に話す。 P51.ボーアにとってラザフォードは、やがて父親のような存在となる。 P64.P・エーレンファストもローレンツ宛の手紙で「ボーアのバルマ公式  の論文にはガッカリさせられました。あのようなやり方で目的が達せ  られるのであれば、私は物理を止めなくてはなりません」と書いている。 P64.ゾンマーフェルトと石原… P64.ナンセンスだとも曲乗りだとも言われた。

4/3・西尾茂子「現代物理学の父ニールスボーア」

 P4.アインシュタインは常に変わることなくボーアの精神的ボクシングの  最上の練習相手であった。 P6.(ボーアに対して)物理学者として最も優れ、社会人として最も件名で善良な  一人の人物が何を考え、何を行ったかをただ、記述しようとしたに過ぎない。 P27.(ボーアは)この修士論文の出来具合に彼は極めて満足していたことが  弟ハラスへの手紙からわかる。これは締切日の6/28に提出していた。  筆跡は母の物である。 P27.1911年1月に論文は完成して印刷され4月に学部に提出された。  論文を書き上げた直後、2/8に父クリスチャンセンが死去した。 P33.ローレンツの言うように電子は速度と共に変形するか否か P33.J・J・トムソンの1903~1904の物である P33.(アインシュタイン・プランク)1910年前以前の量子力学の研究は  ほとんどこの二人だけが行ったと言っていい。多数の物理学者は  量子論を無視するか疑惑の目で見ていた。 P33.電子論というのはローレンツが物質と光の相互作用を扱うために  マクスウェルの電磁理論を拡張し、精密化する事によって1890年頃  に作り上げたものである。⇒(この理論はエーテルの概念を含む) P36.(ネルンストはアインシュタインと1910年頃に量子論の  重要性について語り合った。 P36.(E.ソルベイから一流の物理学者を呼んで国際会議を主催したい  と相談を受けたのはそれから間もなくのことだった。  (ベルギーのブリュッセルで開く) (私論)大学の近代化が進む背景として、欧米では産業革命とフランス革命という  技術的・経済的・産業的な大変化を伴っているのに対して、日本においては政治的  な構造変化が非常に遅かったので物理学が一般大衆に伝わりにくかったと言える。