本日も私なりに抜粋を続けます。
P75.(1914年以降)マンチェスター研究所のアクティビティーは
戦争によって大きな影響を受けていた。
P75.海外から来ていた同僚はボーアが付いた時には四散し、イギリス人の
大部分は軍役についていた。⇒ラザフォードはニュージーランドへ
P76.ガイガーは大戦以前にすでにベルリンを…
P78.プランク・アインシュタイン・ゾンマーフェルトのような
大御所は軍事研究に駆り出される事は無かった。
P78.(1915年のゾンマーフェルトの研究にボーアは)
「非常に興味深くかつ美しい貴方の論文誠にありがとうございます。
これほど楽しんで読ませて頂いた論文はこれまでなかったと思います。」
P80.ラザフォードが政界で初め人工核変換(α線を窒素にぶつけると
水素核(=陽子)と酸素が出来る)の発表を公にするのは1919年の事である。
(He+N2⇒H+ +O2)
P84.ボーアは1917年4月18日に大学独自の理論物理学研究所設立を提案する
詳細にわたる文書を学部に提出した。
P89.(1920年理論物理学研究所でラザフォードを呼び)9月に来て
前年発表したばかりの人工核変換について講演していった。
P92.戦争が終わったらライデンに行きたいというボーアの言葉に対して
エーレンファストは1月にボーアを招待する手紙を書いた。
P101.極めて重要なことは限られた研究仲間の能力や活力に頼るだけでは
いけないという事です。、科学の結果や方法に絶えず若者たちを導きいれる
事をしなければ、新しい側面から議論出来る諸問題を上手く取り上げ続ける事は
できません。こうして若者たち自身の寄与を通じて、新しい血、新しい考え方
が絶えず研究に導入されるのです。⇐ いわゆるコペンハーゲンスピリットは
開所講演に現れています。
P104.(補助金で)24年にボルン、26年にシュレディンガー、23年から仁科、
22年にはパウリ
P(私論).1921年3月3日を起点として本書を読まれることをお勧めします。
P122.22年、後に「ボーア祭りと呼ばれる集まりで:22/6/12~22)
ボーアはとびぬけて優れた二人に若者パウリとハイゼンベルグに出会った。
ハイゼンベルグはゾンマーフェルトに連れてこられて、パウリは…
P112.(11時からの講義にパウリが寝過ごした話をゾンマーフェルトが…ボーアOK)
P114.(ハイゼンベルグは)ボーアから数学的形式化より前に物理的意味を
把握する事の重要性を学んだのである。
コメント
コメントを投稿