(3/31分)
P4.アインシュタインは常に変わることなくボーアの精神的ボクシングの最上の練習相手
だった。
P14.1908年のオリンピックでデンマークチームは銀メダルをとったがハラルはハーフバック
の正規メンバーとして出場し、兄は補欠のゴールキーパーだった。
P17.(ボーアは)導入部と結論が必要だといった類の形式を満たすことに
ボーアは困難だった。
P19.(進路について)コペンハーゲン大学の物理学教授クリスチャンセン
が父親の親友でボーア家に集まる常連の一人であったことも
当然関係していたに違いない。
P31.(量子仮説に対して)プランク自身、その理論の意味・重要性を理解
しておらず、いずれは量子仮説を導入しなくても従来の理論で説明
されるだろう考えていたようである。
1910年以前の量子関係の研究はほとんど、この二人だけで…
(以下私論)
今回の文章は特に「1910年の時点での物理学の思想」に着目して
話を掘り下げたいと思います。物理学史に詳しくない殆どの人々は
1910年の時点での思想について理解が難しいと思えますので
先ずは当時確立されていた考え方から話を進めます。
当時はニュートン力学が成立しマクスウェルの電磁気学がありました。
ただし、その理論の応用は1880年代の終わりまで盛んにおこなわれておらず
「電子」という存在に対しては1897年のJJトムソンの提示まで仮説として
扱われていたのです。
低圧期待放電や陰極線に対しての知見は直接原子サイズより小さな「電子」
の存在に結びついたわけではないのです。この1910年頃に金属中の電子論
に対して各物理学者は興味を抱き参入してきます。1911年に修士論文
として金属電子論を取り扱ったボーアもその一人です。また、日本人物理学者
石原純が同じ1911年に金属電子論に対する論文を書いている事実も特筆すべきです。
(4/3分)
P6.(ボーアに対して)物理学者として最も優れ、社会人として最も件名で善良な
一人の人物が何を考え、何を行ったかをただ、記述しようとしたに過ぎない。
P27.(ボーアは)この修士論文の出来具合に彼は極めて満足していたことが
弟ハラスへの手紙からわかる。これは締切日の6/28に提出していた。
筆跡は母の物である。
P27.1911年1月に論文は完成して印刷され4月に学部に提出された。
論文を書き上げた直後、2/8に父クリスチャンセンが死去した。
P33.ローレンツの言うように電子は速度と共に変形するか否か
P33.J・J・トムソンの1903~1904の物である
P33.(アインシュタイン・プランク)1910年前以前の量子力学の研究は
ほとんどこの二人だけが行ったと言っていい。多数の物理学者は
量子論を無視するか疑惑の目で見ていた。
P33.電子論というのはローレンツが物質と光の相互作用を扱うために
マクスウェルの電磁理論を拡張し、精密化する事によって1890年頃
に作り上げたものである。⇒(この理論はエーテルの概念を含む)
P36.(ネルンストはアインシュタインと1910年頃に量子論の
重要性について語り合った。
P36.(E.ソルベイから一流の物理学者を呼んで国際会議を主催したい
と相談を受けたのはそれから間もなくのことだった。
(ベルギーのブリュッセルで開く)
(私論)大学の近代化が進む背景として、欧米では産業革命とフランス革命という
技術的・経済的・産業的な大変化を伴っているのに対して、日本においては政治的
な構造変化が非常に遅かったので物理学が一般大衆に伝わりにくかったと言える。
(4/9分)
P83.初めは弟とハラル、そして話し相手、口述筆記者
としての役割を、引き続き処理する事になった。(クラマスの話)
以下、私なりに抜粋を続けていますが余り詳細に記載すると著作物のネタバレにつながるので書評の原稿を書き終えた時点でどんどんブログの奥の階層へ落としていきます。リンクも残さずに書評だけ残します。
P43.(ウランやトリチウムよりもラジウムやボロニウムの方が
放射線が高いとキューリは1898年に発見した。)
P44.ラザフォードは1902年にα線も強力な磁場で曲げられることを示し
α線がβ線よりはるかに重い正に帯電した物質粒子であることを確かめた。
⇒1903年の放射性遷移理論へとつながる
P44.(ラザフォードの仕事)この理論によって混乱状態にあった
放射能研究が整理され、その後の研究が方向づけられるようになった。
P44.自分が化学者に変わったことに驚いたとラザフォードは苦笑していたという。
P45.ラザフォードは原子核の発見者となった。
P46.(トムソンのモデルが支配的だったのに対して)ラザフォードのモデルの
重要性は原子のほとんどの質量を担う中心荷電粒子、つまり原子核が
原子の大きさに比べて極端に小さい事にあった。
P48.(ボーアはラザフォードに)原子モデルとの関連性を強調し過ぎないように
比較的乏しい実験的証拠から性急に結論しないようにとたしなめられたという。
P49.(ラザフォードとボーア互いの夫婦の写真)
P50.ボーアは1913年ラザフォードの電子モデルに量子論を適用し
水素原子の発する光のスペクトルを見事に説明したことにより
一躍注目される
P50.(ソルベー帰りのラザフォードは)知人宅で彼独自の熱っぽさで
物理学における新しい……
P51.ラザフォードは色々な点でボーアと違っていた。性格的に
正反対でボーアと違っていた。ラザフォードは研究室中に鳴り響く
ような声で笑い簡単明瞭に話す。
P51.ボーアにとってラザフォードは、やがて父親のような存在となる。
P64.P・エーレンファストもローレンツ宛の手紙で「ボーアのバルマ公式
の論文にはガッカリさせられました。あのようなやり方で目的が達せ
られるのであれば、私は物理を止めなくてはなりません」と書いている。
P64.ゾンマーフェルトと石原…
P64.ナンセンスだとも曲乗りだとも言われた。
本日も私なりに抜粋を続けます。
P75.(1914年以降)マンチェスター研究所のアクティビティーは
戦争によって大きな影響を受けていた。
P75.海外から来ていた同僚はボーアが付いた時には四散し、イギリス人の
大部分は軍役についていた。⇒ラザフォードはニュージーランドへ
P76.ガイガーは大戦以前にすでにベルリンを…
P78.プランク・アインシュタイン・ゾンマーフェルトのような
大御所は軍事研究に駆り出される事は無かった。
P78.(1915年のゾンマーフェルトの研究にボーアは)
「非常に興味深くかつ美しい貴方の論文誠にありがとうございます。
これほど楽しんで読ませて頂いた論文はこれまでなかったと思います。」
P80.ラザフォードが政界で初め人工核変換(α線を窒素にぶつけると
水素核(=陽子)と酸素が出来る)の発表を公にするのは1919年の事である。
(He+N2⇒H+ +O2)
P84.ボーアは1917年4月18日に大学独自の理論物理学研究所設立を提案する
詳細にわたる文書を学部に提出した。
P89.(1920年理論物理学研究所でラザフォードを呼び)9月に来て
前年発表したばかりの人工核変換について講演していった。
P92.戦争が終わったらライデンに行きたいというボーアの言葉に対して
エーレンファストは1月にボーアを招待する手紙を書いた。
P101.極めて重要なことは限られた研究仲間の能力や活力に頼るだけでは
いけないという事です。、科学の結果や方法に絶えず若者たちを導きいれる
事をしなければ、新しい側面から議論出来る諸問題を上手く取り上げ続ける事は
できません。こうして若者たち自身の寄与を通じて、新しい血、新しい考え方
が絶えず研究に導入されるのです。⇐ いわゆるコペンハーゲンスピリットは
開所講演に現れています。
P104.(補助金で)24年にボルン、26年にシュレディンガー、23年から仁科、
22年にはパウリ
P(私論).1921年3月3日を起点として本書を読まれることをお勧めします。
P122.22年、後に「ボーア祭りと呼ばれる集まりで:22/6/12~22)
ボーアはとびぬけて優れた二人に若者パウリとハイゼンベルグに出会った。
ハイゼンベルグはゾンマーフェルトに連れてこられて、パウリは…
P112.(11時からの講義にパウリが寝過ごした話をゾンマーフェルトが…ボーアOK)
P114.(ハイゼンベルグは)ボーアから数学的形式化より前に物理的意味を
把握する事の重要性を学んだのである。
P136.パウリは高水準の研究を要求し、自分の研究に対しても他人の研究に対しても、たとえボーアのような年長の意図の研究に対しても非常に厳しい批判者であって、理論の基礎から、その理論的展開まで徹底的に考え抜き、少しでもあいまいな点があれば見逃さず、容赦なく痛烈に、時に皮肉交じりにウィットにとんだ口調や文章をもって批判した。その為に「物理学の良心」といわれ、物理学の変革期に極めて重要力な影響を発揮した。辛辣な批判は時には若者を落胆させることもあったと言われるが、決して嫌われている訳ではなかった。
P144.(ボーアについて)彼は非常に思いやりがある親切な人だが、理論の死活にかかわる重要性持つと考えた認識論的問題に関連するこのような議論においては、この上ない頑固さで熱心に議論全体の完全な明晰性を主張した。
⇒シュレディンガーへの議論
理論は不完全だというのである。
新しい量子化の方法を電磁場に適用するという残された
主要な仕事にとりかかったいた。
彼の時間を無駄に費やすのではないかといつも心配した。
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