昨日以前のメモ内容も列記します。
非常に読み応えのある本です。
ジャーナリストである筆者の力強さを感じます。
前書き)ケプラーの本を書いているケストラーはツェツペリン伯に従って北極に行ったりした⇒つえっぺりんを10月?
P13.(kepler, keppler, khpler, kepierusなどと名前を記述する側面もある)
自分の名前に対する無頓着さと、日付について極端なまでに精密を期していること、
この二つの対蹠(たいせき)的な態度の共存はそもそも一つの精神を反映している。
すなわち彼にとって宗教、心理および美の本質である。
P14.Weil-der-studt(1935の記載)
P16.祖父ゼバルドゥスは名門の出と言われヴァイルの市長となった。
しかし彼の後は名門ケプラー家の家運は傾いていった。
彼の子孫のほとんどが変質者であり、精神を病んでいた。
(父は山師、母は火あぶりになりそうになった。)
P17.ケプラーが24歳の時に描き上げた、この星占いによる家系譜(ホロスコープ)
は彼の家族(彼を含めて)を包括している。
P18.4番目はケプラーの父ハインリヒ
P20.ハインリヒは1547年1月19日に生まれた。私の父である。不道徳で
頑固で喧嘩好きな男であり、非業の死を運命づけられていた。
金星と火星が彼の邪悪な意思を一層助長した。
P21.ハインリヒ・ケプラーは・・・・・例外は「砲術」
居酒屋・傭兵・ナポリ艦隊
P27.1577年の彗星の話を聞いて知った(ケプラー6才)
9歳の時「両親は月食をみせる為に私をわざわざ戸外へ呼び出した。
月は真っ赤に見えた。」彼の人生の側面の明るい側面はそのくらいだった。
P28.会話もラテン語・・・・(ケプラーのドイツ語で書かれた手紙などの文体は)
天真爛漫で泥臭く魅力的であるものとなており、あたかも厳しい講義室から
解放されて、田舎の縁日か何かで楽し気な歌声をあげている、というような
響きがある。⇒(その後、ケプラーが牧師を選ぶ)
P33.犬に似たケプラーの性格
P33. (ケプラー自身の自己肖像)その男はあらゆる点で犬に似た性質を持っている。
顔つきは小さな愛玩犬のようだ。身体は敏捷で、きゃしゃで釣り合いがとれている。
食べ物の好みでさえ犬のようだった。彼は骨をしゃぶったり、乾いたパン皮を齧る
のが好きだったし、ひどくガツガツしていていて、目に入るものは何でも飛びつく
程だった。しかも犬と同じで酒もほとんど飲まず、ごく粗末な食物で満足している。
習癖も同様だった。彼は他人の善意を探し求め何事も他人に寄りかかり、彼他の
意のままになり。叱られても決して腹を立てず、熱心に彼らの寵愛をとり戻そうと
努めるのだった……(略)……彼は多くの人をひどく嫌っており、彼らは彼を
避けているが、彼の主人たちは彼を愛している。
P46(手紙で)ついでながら、これまでの所、私の暦の予言はその正しさが証明され
つつあります。この地方は前代未聞の寒波に襲われました。アルプスの農場では
寒さの為に人が死んでいます。確かな筋の報道ですが、彼らが家に帰ってから
鼻をかむと鼻が撮れてしまうのだそうです。
P64.5種類の正立体に対するケプラーの誤った信念は一時的な気まぐれではなく
彼の生涯の終わりまで、、、
P68.(宇宙の神秘に所収されたケプラーの文)
神は完全な世界のみを創造しうるのであり、完全な
対称立体(正立体)はただ5種類だけ。それらの立体は
明らかに6つの惑星軌道の間に置かれ、それぞれ
「そこに完全に適合する」ようになっている。
P71.若きケプラーは、この種の議論において
自分が信ずることの全ての証明と自分が証明した
すべてを信じ込むことに成功したのである。
第9章では占星術を扱っており、第10章は計算方…
P72.(ケストナー曰く)神の啓示や先験的確信は
すべて単なる蓋然性に過ぎず、それらの真偽は
観測事実によって決定されるものとなった。
⇒形而上学的思考と経験科学との境界を越えてしまった。
⇒ケプラーは事実問題へと向かう
⇒惑星たちは太陽の周りを円を描いて回るのではなく
何か卵型の軌道をとるのであるから…
⇒正立体は適用させられない。
P75.(コペルニクスは)計算が簡単になるようなデータを選び…
⇒①コペルニクスを疑う
P76.(公転の距離と)②「年」の長さの間の数学的関係を探り始めた。
P77.③「太陽から放射される一種の力」(を想定する)(幾何でなく物理)
(木星と土星の軌道の長さは2倍だが、周期はそれ以上
⇒ケプラーの答えは「太陽から放射される一種の力が
あるに違いない」というものだった。(つまりここで)
天体運動についての幾何学的な記述のみでなく、
そこに物理的原因を結び付けようとする試みがなされた。
(1621年刊行「宇宙の神秘」より)
P85. ・太陽は運動する星の中心にあり、自らは静止しているが
運動の源泉であり、父なる神と創造主の姿を体現している。
・空間が3次元であるという事実がそれ自体神秘な三位一体
神秘な三位一体の源であり「印」である。
P87.神秘主義と経験主義の共存⇒ケプラーの特徴
⇒いくつかは近代精神にとって無意味
P98.(ケプラーのコップ・1エール(1m強程度)の大きさ)
土星はダイヤモンド、木星はルビー、彗星はブランデー、
金星は蜂蜜酒、月は水。
⇒フリードリッヒ公の忠実なるしもべ
であることを示したのである
⇒まず、銅で作らせろ。それを見て銀で作る価値がある
と判断したら十分に便宜をとらせるであろう。
⇒(軌道と五つの正立体の模型を紙で…)
⇒(専門家は)学識のなせる輝かしい作品」と評価。
⇒銀の天球儀をケプラーが作る
P107.1597年の春、ついに「宇宙の神秘」は印刷されて
世に出た。誇りに満ちた若い著者は思いつく限りの
あらゆる著名な学者にこの本を送った。その中には
ガリレオやチコ・ブラーエも含まれていた。
P114.ケプラーの期待は今やすべてチコへ、ウラニボックにあって
世界の新たな驚きの的となっているチコの天文台へと
絞られていた。
「あらゆるものは沈黙せよ。そして35年を観測に
捧げてきたチコに耳を傾けよ。(7)」
「彼(チコ)は無類の金持ちであるが、金持ちの常として
その富を如何に使うかを知りません。したがって彼の富を
彼から無理にでももぎ取らなければならない。(8)」
(1599年2月16日と26日のメスリンへの手紙より)
「ヨハネス・ケプラー全集第13巻289ページ)
P125.(J・L・E・ドライヤー著「チコ・ブラーエ」1890.27pg)
鼻の一部を失ったのは「どちらがより優れた数学者であるか」
という論争から始まったのである。
P128.(チコはヴェルデと16歳ころ出会い、26歳の時には)
ヴェルデルもチコが星に憑かれてもはや手の施しようがない
ことを悟って降参し、こうして二人は生涯にわたる友人になった。
⇒
P129.(チコが26歳の時、直径38フィートの巨大な四分義をつかう)
・天文学は正確で継続された観測データが不可欠である。
・コペルニクスは「天体の観測について」の本の全体を通じて
彼自身の観測値をわずか27しか記録していない。
(チコまでの時代、当日それが標準)
P129.チコに至るまでは
P172.喧嘩があってからは3週間後には智子がプラハに出かけ
ていきケプラーを自らの馬車で
P173.ケプラーとチコの出会いからチコの死に至るまでは
通算すると18か月あった。
P179.「わが生涯が無駄であったなどと
思わせないでくれ(チコの最後の言葉)」
P180.(その1597年には)自然の力の事は
当時の天文学者の関心外だった。⇒無関心だった。
P187.1609年
P183.天文学と科学
P184.天文学は
P186.火星がカギとなる
P189.重力と慣性
P190.物理学的な意味だけでなく幾何学的な意味でも太陽を中心
として扱うことに彼(ケプラー)は同意し、惑星の太陽に対する
位置(地球に対する位置ではない)と距離とを彼の計画の
土台とした。⇒ 平面上で惑星の運動がある
P191.⇒チコの観測結果に基づいて火星と地球の二つの平面の間
の角度は常に一定であること及び、
その角度は1度50分になることを証明した。
⇒「観測は依然にしばしばそうであったように、
私の先入観に味方してくれた。」(「新天文学」第2巻14章)
P198.彼の第二法則
P202.ケプラーを最初の立法者
P204.先ず何よりも地球それ自身の
P206.運動量という概念は彼(ケプラー)にはなく
P217.コペルニクスもまた楕円
P220.(新天文学序文)2個の石が空間の任意の場所に
互いに接近しておかれ、……磁性体のそれに
⇒P232.行方不明
P241.聖書の権威は
P238.1910年3月のある日。。。
P239.宇宙の・・・
P264.(ガリレオについて)さしずめ彼は
自由主義者の父親を持つ社会主義者の息子
ということになろう。
P266.彼の人格、あの冷徹で嫌味な図々しさ(⇒彼を駄目にした)
P267.文通相手の中にケプラーが居た。
P268.(1597年)ケプラーは26歳でグラーツ大学の数学教授、
であり、ガリレオは32歳でパトヴァ大学の数学教授だった。
P289.(オランダでの望遠鏡発明)
P292.(ガリレオは)星は人類の星は人類の喜びの為に
創造されたという考えの不合理なことを示してくれた。
・(ガリレオの本は)この本は途方もなく読みやすい。
p294.天才+尊大ー謙虚が凡人の間に生み出す・・・
p296.唯一のガリレオを擁護する声はヨハネスケプラーのそれであった。
p301.(「新天文学」完成後)正六面体、に、、、
p302.天のエーテルに適合した穂⒮年を作り
p305.ガリレオの観測結果を(イエズス会派が)確証
P306.(1610年8月9日、ケプラーが波理レオに手紙を書きます)
「(…略…)私どもは哲学的問題ではなく法律的問題を
扱っているのです。ガリレオは故意に、世間を惑わせたの
でしょうか。(…略…)我がガリレオよ出来るだけ早く私に
承認を推薦して下さる事を要望致します。」
⇒今度はガリレオは急いで返事を書いた。
(1610年8月19日パトヴァにてガリレオからケプラーへ)
「輪がもっとも学識のあるケプラー。貴下の二通のお手紙を
私は受け取りました。最初のお手紙は、貴下が既に
本にされて出版されていますが、(…略…)」
⇒ガリレオは出来るだけ質の良い機械をガリレオに送ると約束
⇒「わが友に送る」と約束していたが約束が果たされる事は無かった
「相当数の人が『メディチ家の星』を見ているのですが、
その人たちは皆沈黙するか躊躇しているのです。
こうしてガリレオは自らがケプラーの「味方」であることを
強調して、ケプラーからの好意を彼なりに受け止めていたのです。
p348.(第三法則)1618年3月8日に(その解は)私の脳裏に。。
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