休日なので書評メモを纏めます。先ず、オッペンハイマー。
(以下16行2/27)
興味を覚え、3回目の通読です。
図書館での貸し出し期限を延期しました。
以下、後の為にメモを残しますj。
P49.彼(オッピー)の物理学の乱読が知的酩酊の域に止まり
理論物理に天職を見出したものの読み方ではなかったわけだ」
p62.(オッペに対して)飛び切り親切にしてくれたのは
Rファウラーで天才ディラックも彼のもとで育った。
P71.ラザフォードがα線を連続して原子核にあてて、その概要を明らかにしています。
P72.プランクが原子から出てくるスペクトルに注目して光量子を理論に取り入れる
こうした前期量子論の議論の時代(1913年からの10年ほど)を評して
p75.ゾンマーフェルトが「ご用心!危険構造物、完全再建の為一時閉鎖中」
と表現した。そしてWパウリとWハイゼンベルグを育てたが、1925年7月に
「運動学的力学的関係の量子力学的再解釈について」を発表する。
その中で行列力学による定式化をおこなった。
それを読んだディラックが交換関係を同年、使いこなし、翌年に
シュレディンガーが波動関数による定式化を行う。
(以下15行2/24)
藤永茂著・オッペンハイマーを読み続けています。
深い内容なので何度でも読みたい気分です。
メモを落とします。
P311.オッペンハイマーは「Prudence」を持っていない。
i.e.世の中でやっていく為。あるいは少なくとも落伍しない為の
賢明な兵法に従って、ニッコリするか或いは顔をしかめるか
跳ねるけるか……反応の仕方の見当がつくものだ。」
(それに反して)オッピーは自身の知的・道徳的・
審美的規範で置き換えたのだ。(By. N.R.ディヴィス
P315. オッペン像・「事実の歪んだ写像」
P316.現代物理学の父、ニールスボーア
研究の自由を主張して、米ソの核の管理を
トルーマンとルーズベルトに進言した経緯を描いている
P344.アメリカが1945年に核開発した4年後にソビエト連邦が開発。
P377.ホールデンは実に嫌な文を書く
(以下7行2/22)
今日は週末、簡単にメモを残します。
P111.パウリを識るオッペンハイマー
P113.ライデン大学でOpje と呼ばれた後に、UCBでOppie
P146.オットーハーンが1938年にウラン核分裂
P178.ウラン型とプルトニウム型の原子爆弾
P183.誤解・無知・愚昧・倣欺瞞な思想と倫理との葛藤
P223.オッペンハイマーは1943年にフォンノイマンに助力を依頼
いずれ、時間をとって深堀するつもりです。
(以下16行2/21)
オッペンハイマーを包む人脈を改めて思い出したいと思います。
新しい物理学が1925年のオッペンハイマーの行列力学
に始まり、ケンブリッジの秀才達でさえ、
(ディラックを除いては)理解の及ばない進化を続けていたのです。
朝永振一郎の回想によると、「(彼が研究を始めた)1926年の秋に
研究生活に入ったのは、新しい量子力学が誕生した直後で
何をおいても先ずその勉強をしなければならかなった。…
ドイツ語を学んで現論文を読むよりほかに手はなかった。」
そんな環境でオッペンハイマーが急速に知識を吸収して
ゲッチンゲンでの修業時代にボルンと「分子の量子理論に対して」
という大きな仕事を成し終え、ボルンのサロンで論客たちを相手に
一線級の議論を繰り広げていたのです。ハイゼンベルグ・ディラック・
パウリ・フォンノイマン・フント・ヨルダン・フントといった
物理学者と意見を交わし、刺激をしていったのです。
とくに、エーレンフェストとパウリはオッペンハイマーの
二度目の訪欧ではとても大事な貢献をします。
(以下25行2/20)
オッペンハイマーの伝記を読み進めています。
特に今回は小説の後半部分の記述となります。
有名なオッペンハイマーの言葉ですが、
「物理学者は罪を知った」という発言に注目します。
(P414)ダイソンは「宇宙をかき乱すべきか」
という著書で述べています。
「コーネル大学のロスアラモス経験者のほとんどは
このオッピーの言葉を腹立たしく拒絶した。」
また、
A.K.スミス(「危険と希望」の著者)は
「オッペンハイマー書簡集」の中で
「日が経つにつれて、気落ちの反転はいよいよつのり、
それと共にー戦争が終わったことが
原爆を正当化したと考えた人たちでさえー
悪というものの実在について強烈に
内的な経験を味わったのだ。」
著者はオッピーの意図はA.スミスの心情に近い
と表現しています。
また(p425)での記述では1947年にシェルター島での会議で
ラムシフトが議論されました。続いて1948年に
守備んがーが8時間喋り続けたスピーチがあり、
別途朝永振一郎がオッペンハイマーに手紙を書き
持論を展開したことがきっかけとなってPRL
への投稿が実現して、最終的に
朝永振一郎はプリンストンへ招へいされるのです。
(以下全て2/18)
別ブログでも短編を掲載しました。
本ブログでまとめて
更にご紹介できたらいいと考えます。
激動の戦時下の時代に社会体制が大きく変わり
核兵器の使用という点で現在も
緊張は続いていると思われるからです。
2/15・オッペンハイマーと核反応の歴史と愛国心
2/14・オッペンハイマーのケンブリッジ留学時代まで
(2/16・個人的事情で今日はメモだけ残します。)
(p234)トリニティーの意味
(p244)消防車ベーテ
(p244)論文数多く、しかしロバート
(p246)ナチスドイツが原爆を持てないと確信@1944-11
(p269)聖者フランクのフランク報告書
今日は、私は初版本を読み続けていますが、そこでのページ数に従って
ボーアの生み出した自由闊達な雰囲気をお伝えしようと思います。
(P107)
『日本人物理学者堀健夫の回想も同じ(ハウトスミットと)同じ調子である。
「コペンハーゲン・スピリット」というような
名前も付いているボーア研究所の雰囲気というのは、まことに我々の
驚嘆に値するもので、日本における雰囲気とは全く違っておりました。
コロキウムが盛んにおこなわれるんですね。頻繁に行われる。
何も日にちが決まっている訳じゃございません。誰かが話をする
素材料を持ち出した時には、すぐにボーア先生が自信が各研究室
を回って、今からコロキウムをやるから集まれを言われながら、
皆を招集していました。
また、その議論が活発な事といったら、
それこそ、本当に日本で経験できなかった活発さ。全然お互いに
無遠慮で、質疑、応答。当時量子力学の本当の最初の発展期で、
日に日に発展しておった時代でございますから、
ボーア、ハイゼンベルグ、クライン、ディラック、フント、
えらい、そうそうたる人の議論を聞いておりまして、
私も私なりにずいぶん教わることが多かったのでございます。』
ボーアの人柄・信条が伝わりますでしょうか。
ABコペンハーゲンのサッカー選手だったボーアが
人を集め、人を育てて議論を深めていく様子は圧巻です。
【上の文章はオッペンハイマーが二度目の欧州修行の中で
1929年アメリカ帰国の前にボーアのもとで議論する時代での文です】
何だか、
今の私自身の文章も堀さん・藤木さんの文章に似てきている気がします。
ちなみに、話し方や文章は人柄を伝える部分があって、
ボーアの独特の言い回しは人柄を表しているのでしょう。
ボーアの生きた時代、物理学会で妙な話し方をしている人にあったら
きっと、「あの人はコペンハーゲン帰りだろう」とか
(冗談めかして)言われていたかもしれません。
オッペンハイマーは良い物理学者たちに出会っています。
ボーアのもとにオッペンハイマーが出かける前にはエーレンファスト
の所で議論をしていますがエーレンファストはパウリ宛の手紙で
彼を評して
(p99)『オッペンハイマーはいつも機知に富んだアイディア
を持ち出してくる。彼の大きな科学的才能を十分に発展させる為
には、今の内に愛情をこめてよい形で鍛え上げるべきだと私は
確信している。』
オランダでエーレンファストはオッペンハイマーを見つめ、
数学的なセンスに期待を寄せると共に現象を追いかけて欲しい
と望みます。物理学は単純だが繊細(微妙)だという
(physics is simple but subtle)暖かい考えがオッピーを包むのです。
その後、「がっちりとした計算の腕を持った」パウリの所に
オッペンハイマーは送られるのですが、一か月後、パウリは
エーレンファストに1929年の手紙で伝えています。
(P100)『うんと締め上げたり、おだてたり
している内に彼はきっと立派になるだろうと楽しみにしている』
エーレンファスト・パウリ・ボーアの物理学への愛情と
オッペンハイマー個人への愛情を感じられる文章です。
こうして、
オッペンハイマーは良き人々に囲まれて美しい時代を過ごしました。
2/13・ 藤森茂さんの「ロバート・オッペンハイマー」を読んでいます。
久々に良い本に出合った気がしていて是非皆様にもご紹介したい。
なにより、作者の藤永氏は手紙を含めた一次文献を詳細に吟味し、
オッペンハイマーの人生を克明に表現しています。
無論、初学者が使う量子力学の教科書でも夫々の考え方に対して
その考え方が成立した年代の記述があったりして、
学習者は一定の理解のもとに学習を進められます。
対して、この本を読むならば夫々の時代での人物模様が
克明に感じられて極めて興味深い追及が出来るのです。
例えば、量子力学誕生の1925年、ケンブリッジのファウラー教授
が手に入れた(独)ハイゼンベルグ・ボルン・ヨルダンによる第一論文の
校正稿を見ることが出来たディラックは(むろん感動を抱きながら)
ポアソン括弧での表現を加え、衝撃を与えます。
そして、その直後にオーストリアのシュレディンガーが
波動力学を使いミクロの諸量と古典力学での物理量を対比付け
数学的にも分かり易い表現で量子力学を表現したのです。
その他、オッペンハイマーがハイスクール時代に
「トラブルを意識的に避けたかった事情」や
「内面的に処理しきれなかった」問題を非宗教的な倫理観
で解決していく様子、ユダヤ・キリスト教・イスラム教で
心の安定を得られずにヒンズー教に活路を見出す様子も面白かったです。
その後、ハーバードに進んだオッペンハイマーは
三年間で最優秀の成績を収め卒業し、ケンブリッジに進みます。
また、1922年の文学での奇跡の年をどう過ごしたか、
1925年の物理学での奇跡の年をどう過ごしたか、
オッペンハイマーの人生に大きく関わるのですが、
その二つの軌跡の年にハーバード大学へ入学・卒業を
している事実は特筆すべきです。
他、
ラッセル・ホワイトヘッドによるプリンキピア・マセマティカ
の紹介や、オッペンハイマーが若い日に読んでいた本、
ポアンカレの「現代物理学」
ギブスの「非均一系における非平衡論」
ジールズの「気体分子運動論」
ゾンマーフェルトの「原子構造とスペクトル線」
や、それを知ったハーバードの理論屋ケンプルの驚き
が克明に伝わってきます。ケンブリッジに進み
ラザフォード研究室所属を望みながらJJトムソンの研究室に所属し
コペンハーゲンのメンバーと交流していく様子も
ありありと描き出されています。ご一読されたし。
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