(目次)
船乗りナットの冒険――ボウディチ
ソーヌ河畔モンドール――アンペール
風車小屋だより――グリーン
愛と死との戯れ――カルノー
メリンの神の土地――ノイマン
哲学者たり、理学者たり――シラノとガサンディー
黄金色の波がさざめき――ゲーリケ
クラパムコモン――キャヴェンディシュ
シュトルードルホーフ階段――シュレーディンガー
彼は星を近づけた――フラウンホーファー
ボストン&ロウエル鉄道――ラムフォード
サン = ラザール駅――フレネール
ディエプ上陸作戦――ド・ブロイ
西部戦線タクシーなし――デーブリーン
元祖だめんず・うぉ~か~――デュ・シャトレー
マロニエの並木道を、二人っきりで――キュリー
(3/27分)
Ⅴ.疾走するかなしさ(物理学者についての記載)
P21.アンドレ=マリーアンペールは1775年1月20に「絹の都」リヨン
の商業地にあるサニタントアーヌ海岸で生まれた。
P26.(エールスンデは論文の中で)
「電気的衝突は導線の周りで円を作る」と述べている。
(衝突⇔磁場・の対応に着目)⇒カントの流れ⇒「力の統一の端緒は…」
P28.磁性体が微小電流の流れる分子からなるという考えは
やがてウェバーによって分子論へと発展していく。
(アンペールの分子電流に関して)
アンペールの墓石には「彼は人間を愛した。
彼は素朴で善良で偉大だった」と記されている。
P51.(カルノーは)実戦の指揮をとりオーストリア軍を撃退した。
P56.サディーの論文スタイルはらザールから受け継いだ。(カルノー家)
P66.ケーニスヒルペルグはカントの町である。
ケーニスヒルペルグ生まれの数学者・物理学者にヘッセ、
キルヒホッフ、リプシッツ、クレプシュ、
ヒルベルト、ゾンマーフェルトらがいる。
P82.ブルーノが火刑になったのが1600年、
ガリレイが異端審問で有罪になったのが1633年、
デカルトが「宇宙論」を取りやめ、ガリレオを擁護した
カンパネラがパリへ逃げてきたのが1634年である。
それから間もない時期に言いたい放題を言うシラノは痛快だ。
(3/29分)
P85.(ミラノの先生)ガサンディーはケプラーの
「ルドルフ長」どおりに1631年11月7日
に水星が太陽を横ぎる事を観測しました。
P86.船の帆柱から落下実験を実際に実行したのが
ガサンディーである。(1640年のガリレイの実験の再現)
P87.ニュートンは学生時代にガサンディーを読んで
大きな影響を受けた。
P110.「リヴァイアサン」を書いたトマス・ホブズは
キャベンディツシュ家と生涯に渡って親密な関係にあった。
P116.7代デボジャー公ウィリアムキャンでビッシュは
ケンブリッジ大学名誉学長に就任したが大学に
巨額の資金を寄付し、実験物理学の教授職を創設して
1871年にマクスウェルを任命した。
P123.エルヴィン・シュレディンガーは1887年7月12日に3区
ランク通りで生まれた。ボルツマンの生家があるラント通り
を歩いていくと、モーツアルトが「ドン・ジョバンニ」、
「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、「弦奏楽重奏曲ト短調」
を作曲した家がある辺りを通るが、その先で左に入った
アポステルガッセにあるアパートが生家である。
P127.第一次世界大戦が始まり、シュレディンガーは直ぐに招集
を受けた。1915年には「武器よさらば」の舞台となった
激戦地イレイゾ河畔のコリーツィアに従軍した。
P128.ヴァイルが一般相対性論と電磁気学を統一する目的で
導入したステイル因子を位相因子に解釈し直すという
シュレーディンガーの驚くべき洞察力を示している。
P130.ロンドンは翌年、量子力学の位相因子を発見することになる。
P130.デバイはドブロイの論文をコロキウムで紹介する事を
シュレディンガーに求めた。コロキウムの最後にデバイは
「波動を扱うには波動方程式がなければならないと
ゾンマーフェルトから習ったよ」とコメントして
シュレディンガーは1926年に4部からなる論文
「固有値問題からの量子化」を立て続けに「物理学報」に発表した。
それは首尾一貫した論文ではなく、様々な推論を用いて
真実を発見しようとする苦悩を生々しく伝える
記録文章であり、天才の技を言うしかない。
第一部で定常状態のシュレディンガー方程式が現れた。
それまでの天下り的な量子仮説と異なり、波動方程式の
解としての固有振動に対して飛び飛びの量子数が
自然に表れた。
P132.元来、非政治的人間のシュレディンガーがナチを嫌悪して
オックスフォードへ亡命したディラックと共にノーベル賞受賞の
知らせを受けたのはオックスフォード到着直後である。
P132.シュレディンガーはアインシュタインとコペンハーゲン解釈
を最後まで承認しようとしなかった。
P135.アインシュタインはポドルスキー・ローゼンと共同で
「物理学の…・」を発表するとシュレディンガーはそれに呼応して
「量子論と測定」を書いたが使っていたドイツ語を訳した
「エンタングルメント」はむしろ現代では…
(3/30分)
P147.フラウンホーファーは生涯独身で1862年6月7日に
肺結核で亡くなった。39歳だった。スピノザと同じ職業病かもしれない。
P225.1894年の論文「物理現象における対称性」で
「ある原因がある効果をもたらす時生じた結果には
原因における対称性の対称性が見いだされなければいけない」
と言っている(キューリーの原理)
P229.宮本百合子は「マリーの生涯で一貫しているのは雄々しく
辛苦を凌ぐ粘りと勇気を持っていた『命の焔』だ」と言っている。
(ピエールも静かに命の焔を燃やし続けたのでしょう。)
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